日本ネグロス・キャンペーン委員会(JCNC)は、フィリピン中部にある「砂糖の島」・ネグロス島で起こった飢餓救援のために1986年2月に設立されたNGOです。その経験は、APLAに引き継がれ、2008年3月末をもって活動を終了しました。
日本ネグロス・キャンペーン委員会(JCNC)の始まり
フィリピン・ビサヤ地方に位置するネグロス島は、スペインによる植民地化以来、砂糖産業だけに依存する経済構造が200年以上も続き、島全体が砂糖産業に支えられています。その構造は現在も変わらず、西ネグロス州の農地面積の6割が砂糖農園で占められています。1980年代前半、砂糖の国際価格が暴落し、ネグロス島では深刻な飢餓が発生しました。国際連合児童基金(UNICEF)の報告では、15万人以上の子どもたちが飢えに直面していると伝えられました。その飢えの原因は、砂糖価格が上昇するまで農園地主が砂糖キビ生産を中止したため、農園労働者の仕事がなくなり、食料が買えず、子どもが飢えるという構造でした。そのため、この飢餓は「つくられた飢餓」とも言われました。
当時、日本国内には、フィリピンの人権問題や、日本の企業進出問題に関わる団体が「フィリピン問題連絡会議(JCPC)」というネットワークを作っており、この飢餓を救うための緊急キャンペーンを行うことがメンバーの間で確認されました。そして、JCNCが発足し、ネグロスへの緊急援助が始まったのです。
ネグロス島という地名、なぜそこで飢餓が起こったのか、植民地時代から作られてきた「構造的貧困」問題への日本国内の関心が全くといっていいほどないということなど、発足当初の課題は山積みでした。そのため、JCNCの募金活動は、「ネグロス問題」を理解してもらう人びとのネットワークを作ることと同時並行で組み立てられました。フィリピンで文化教育活動に関わるデッサ・ケサダらの歌や芝居を上演する全国ツアーが開始され、教会関係者、市民運動、女性や学生グループを中心に全国に24のネットワークが結成されました。
JCNCの活動
JCNCの活動は、ネグロスの政治情勢や現地からのニーズにより、その時代ごとに活動の内容が幾度か変化・発展していきました。緊急救援、民衆交易、土地闘争支援、農業・地域自立運動と推移しました。
砂糖危機後におきた軍事化による国内難民支援(1988~1992年)
飢餓への緊急救援が一段落した時、当時の砂糖労働者組合委員長から「自分たちに必要なのは魚ではなく魚を獲る網なのだ」という言葉が投げかけられました。これは、低賃金で働く砂糖農園労働者に戻るのではなく、農地を手にし、自立したいというメッセージでした。アキノ政権樹立後に制定された包括的農地改革法により、ネグロスの砂糖農園も農地改革の対象となり、JCNCの活動の軸は「援助」から「わかちあい・共生」に変わります。「農業を軸とした地域自立」という課題をネグロスだけにとどめず、日本国内の農業・農村の課題とつなげることを確認しました。砂糖労働者が農業を学ぶための「ツブラン農場」を現地につくり、日本の農民との交流や適正技術を学ぶ場所としました。
一方、この時期からネグロス島は、アキノ政権の反政府勢力との全面戦争の実験場となっていきます。軍事化が強化され、山間部の農民たちは国軍によって強制退去させられ、国内難民が続出しました。砂糖危機支援のための海外NGOはすでに退去しており、国内難民支援は全くなかったため、JCNCは「農業を軸とした地域自立」のための活動の前に難民支援に追われることとなり、現地のNGOを通じて食料・医薬品の支援、一時シェルター・再定住地の確保、そこで生活するための農業支援などを実施しました。
援助から民衆交易へ(1987年~現在)
国内難民支援は、軍事化が収拾した1992年まで続きましたが、一方で自立農業への取り組みも開始されました。この時期JCNCは、日本国内で活動する生活協同組合運動を担ってきた女性たちと出会います。「カンパに支えられた活動から市民が協力する経済活動」に展開できないかとの問いかけがあり、海を越えた「産直活動」が提案されました。ネグロス島から、現地で伝統的に作られてきた黒砂糖“マスコバド糖”と山で自生している“バランゴンバナナ”が日本へ届けられることになりました。その貿易事業を担う会社として、1989年、各生協や市民団体、個人の出資を受け、㈱オルター・トレード・ジャパン(ATJ)が設立されました。
一方のJCNCは、輸出用の砂糖やバナナだけに頼らない多様な農業への支援をネグロス内で広げていきました。
土地闘争支援(1993年~2008年)
1993年以降、軍事的支配から経済発展を重視したフィリピン政府の政策変化に伴い、ネグロス島でも農業や地域づくりに専念できる状況が生まれてきました。しかし、それを進めるにあたっての大きな課題は、農地改革でした。大土地所有制が島の経済構造の基盤にあるネグロス島では、私兵を雇った地主による暴力事件や労働者組織の役員への工作などの妨害が続き、農地改革が遅々として進まなかったため、法律に沿った改革手続きが迅速に行われるための支援を続けました。具体的には、土地問題に強い弁護士への協力依頼、フィリピン政府・農地改革相らへ圧力をかける国際的キャンペーン、農地改革受益者への農業支援でした。
農民交流と家族農業・生産者協同組合の誕生(1995年~2006年)
西ネグロス州での農地改革は、2007年時点で、政府が掲げた目標の60%しか達成していませんが、それでも農地改革を実現した農園が次々に生まれました。しかし、農地改革後、政府の支援は全く存在しなかったため、農機具から営農資金、計画作りまで、現地NGOが農業指導員を育成し、現場で農民とともに働く活動が主軸になっていきました。JCNCは、砂糖労働者、零細農民、都市貧困層、零細漁民の州レベルの民衆組織と開発支援に関わるNGOが合流し形成された「21世紀に向けた民衆農業創造計画(PAP21)」をパートナーとし、農地改革の推進、自立農業づくりのセンター的役割を通じて、ネグロスの各階層の人びとと連携を取りました。
多様性をもった農業や生活のあり方を模索し、JCNCは営農資金のマイクロクレジットや水問題などへの支援を続けましたが、同時に農民交流を頻繁に行いました。ネグロス島内、フィリピン国内、そしてタイやマレーシアなど、プランテーション労働を経験していない、本来の農民の仕事や生活を実体験することで、これまで植えつけられていた労働者意識に変化が生まれ、労働組合とは違う生産者協同組合が形成されるようになりました。こうして、元砂糖労働者たちが野菜や米農家に徐々に転換していったのです。
ネグロス島での経験をアジアへ(2006~2008年)
2006年、JCNCと21世紀に向けた民衆農業創造計画(PAP21)は、1995年からの10年間の活動を振り返り、すでに多くの独立した生産者組織が生まれたことを祝うと同時に、今後は農民どうしのネットワークが必要であるという認識を共有しました。PAP21というNGOの機能は一定の役割を果たしたという認識に立ち、解散。JCNCによるPAP21への支援は2006年で終了し、今後は、「ネグロスでの失敗や成功の経験を他の地域の人びととわかちあい、地域や国境を越えた交流を通じて学びあう」という新しい活動を開始することを確認しました。これがAPLAの発足につながっていきます。