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2012年4月28日(土)三春花見祭り報告

APLAは、2011年4月より“滝桜花見まつり実行委員会“のメンバーとなり、福島県三春町の農家さんとつながりを持ち始めました。2回目となる花見が2012年4月末に実施されたので、こちらで報告します。

三春町と滝桜

三春町は、福島第一原発から西へ45kmに位置している。人口1万8千人のこの町は、桜の名所として知られており、毎年春には、日本三大桜の一つである、滝桜と呼ばれる樹齢1000年以上の一本木を見るために、全国から30万人の観光客がやって来る。三春町の地名は、桜、梅、桃の三つの花が一斉に咲くことに由来している。春には、こぢんまりとした町の各所に色とりどりの花が咲き乱れる。その景色は「桃源郷」という言葉を使いたくなるほど、人の気持ちを穏やかにする美しさで溢れている。
三春町のシンボルである滝桜は、太平洋戦争中に軍から切断するように迫られた。しかし滝桜を管理する集落は、何とかして桜を守った。今、三春の桜は、もうひとつの危機を迎えている。言うまでもなくその原因は、原発事故にある。昨年、三春町に桜を見に来る観光客は、激減した。今年は旅行代理店がツアーを組んだり、テレビで取り上げられたりしたこともあって、表面的にはにぎわいを取り戻した。しかし放射能汚染の現実は重く、地元産の農作物や農産加工品の売れ行きは落ちている。

2回目の花見

厳しい状況が続くなか、4月28日に、三春町の芹沢農産加工グループ、滝桜花見まつり実行委員会、福島原発被災地「農と食」再生ネットワークの主催で、滝桜花見祭りが開かれた。三春町、福島県内、東北各地、首都圏などからの参加者100人ほどが、町の貝山集会所に集まり、満開の桜の下で交流会を開いた。
会の冒頭、地元の芹沢農産加工グループの代表は、グループ結成の経緯を語った。1年前、自分たちがどうしてよいか途方に暮れていた時に、全国各地の友人から小さな農産加工を支援したいという申し出を受けた。これに励まされて、自分たちの小さなグループを組織したのが始まりである。地域の直売所は、小さな農業者の生活と女性の自立の助けになってきた。しかし原発事故以降は、この直売所が消え去りつつある。そこで芹沢農産加工グループは、郷土食を売り出して、地域の小農業者と女性の支えを取り戻そうとしている。
今、芹澤農産加工グループは、ソーラーパネルによる発電の準備を進めている。このパネルは、つながり・ぬくもりプロジェクトの支援で、グループの農産加工場と同じ場所に設置され、加工場に必要なエネルギーを自給する予定である。原発事故以降、都市部では、路上での脱原発デモに参加する人数が急増している。こうしたストリートでの動きに加えて、今後は脱原発の生活を具体的につくっていくことが必要となるだろう。芹澤農産加工グループの試みは、農山村の自然の力を生かしながら、脱原発の地域をつくる実験のひとつと言える。
三春の女性グループの実験は、その理念に共鳴する町の人びとの支援を受けている。支援グループのひとつである大阪の生コン建設労働組合は、2年前のストライキで勝ち取った賃上げの一部を芹沢農産加工グループに拠出した。多くの人びとの思いに支えられたソーラーパネルは、まもなく稼働する予定である。

交流がつながりへ

花見祭りはその後、三つのグループに分かれての車座トークに移った。各地からやって来た参加者は、原発事故以降、どう過ごしてきたのか、どんなことに悩んでいるのかについて、飲み物を片手に話し合った。私たちのグループに加わった地元の女性たちは、孫の食事に何を食べさせてよいのか、外で遊ばせてよいものなのかどうかに頭を悩ませていると語った。子どもたちは、日々線量計をつけて、被ばく量を測定している。いくら花見の観光客が戻ってきても、これでは通常の状態に復帰したとは言い難い。
何よりも彼女たちを不安にさせているのは、被ばくによって、いつ、どのような影響が出るかがわからないことである。三春町は、原発の爆発直後、町長が40歳以下の町民にヨウ素剤を配布したことで知られている。食品検査体制に関しても、町は複数の測定器を導入し、農産物を無料で検査している。さらに地域に相談員を置き、放射能汚染に対する住民の悩みを聞く体制を整えている。しかし、過去に経験したことのない放射能汚染に直面する住民の不安が完全に消えることはない。
その後、各地からの参加者が、自分たちの思いを語った。茨城県の取手からの参加者は、三春と同じく高い放射線量の土地で暮らすうえでの悩みを話した。原爆の被ばく地である長崎からの参加者は、飛行機に乗ってはるばるやって来た理由を語ってくれた。東京のNGOに関わっている参加者は、消費者として汚染された農産物の現実に向き合う中で、自分が信頼する生産者の作るものを食べたいという思いを強くしていると発言した。
この車座トークは、ほんの1時間ほどのものであった。何らかの結論を出したり、具体的な行動の計画を立てたりしたわけではない。それでも、このトークは、有意義なものであったのではないかと感じている。自ら率直に語ってくれたように、地元の女性たちは、3・11以前は原発を気にすることなく生活していた。他方で、私のように首都圏から来た者の多くは、福島のことについても、三春のことについても、十分に知ることなく暮らしていた。手探りで始めた去年の春から一年たち、お互いの顔を覚え、少しずつではあるが、交流が形になりつつある。福島と東京との新しい関係をつくるためのスタート地点にようやくたどり着くことができたのではないか。今年の春の訪問は、私にこう感じさせるものであった。

報告:安藤丈将(あんどう・たけまさ/APLA評議員)