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2012年5月APLAが出会った福島・二本松《第一部》

3.11以後、APLAは、被災した農民の方たちから現状や思いを聞くことからはじめました(詳細は、APLA Report no.5に掲載)。その時に、APLA共同代表の疋田美津子が所属する「しらたかノラの会」とつながりのあった「JAみちのく安達・二本松有機農業研究会(以下、二本松有機農業研究会)」のみなさんと出会ったことをきっかけけに、以後、二本松に通いつづけています。そして、苦悩を抱えながらも、震災直後から土を耕し、作物の力による除染や再生を手探りで進めてきたメンバーのみなさんたちとの交流・意見交換を通じて、まずは、共に学び・考える場としての「福島百年未来塾」の実施と有機にんじん使用まるごとジュースの販売に取り組みはじめています。

今回、二本松有機農業研究会の代表・大内信一さん(70歳)に改めてお話をうかがうことができたので、3回に分けてご紹介します。

大内さんの農業と二本松有機農業研究会

大内信一さん(2011年夏)

二本松有機農業研究会は、1978年に結成されました。この当時、地産地消を合言葉にした都市と農村との交流が活発でした。そのなかで、私たちは、安全な農産物を探していた地元(主に福島市と郡山市)の生協や消費者との関係をつくったのです。二本松では、農協が地産地消の取り組みに熱心でした。

私は、1960年頃に農業を始めました。最初は慣行農業をしていたのですが、1970年頃に有機農業に転換しました。転換した理由は、本当の農業をやりたい、本物の農民になりたいという気持ちがあったからです。それまでは農産物の収量を上げることが絶対的に大事でして、安全な農産物をつくるという発想がありませんでした。しかし、愛農会(注1)や日本有機農業研究会(注2)の先覚者たちと出会うなかで、これまでとは違う農業のやり方を知りました。

本物の農業とは、ただお金もうけのためにやるものでも、とにかくモノさえつくればよいというものでもなく、安全と環境に配慮するものです。ちょうど有機農業を始めたのは、自分自身の子育ての時期でもありました。それなので、安全と環境への配慮というのは、消費者の問題ではなく、私たち農民自身の健康の問題であることに気づいたのです。

私には二本松に一緒に農業を勉強する14~15人の仲間がいました。彼らに呼びかけたところ、一緒に有機農業に取り組んでくれました。二本松有機農研は、設立時から農協の中の組織でした。今では農協ぐるみで有機農業をやっているところもありますが、当時はめずらしいものでした。農協職員に有機農業への理解があったおかげですね。

1980年代半ばから後半にかけて、私の地域でも航空防除(ヘリコプターによる農薬散布)が行なわれました。航空防除では無差別的に農薬が撒かれるので、自分たちのように無農薬でやっている農家には大きな問題をはらんでいます。元気のよい田んぼにも、そうでない田んぼにも一緒くたに薬をまいたら、農民は作物を見る目をなくしてしまいます。そこで市や行政に働きかけて、自分の地区は一番先に航空防除を辞めました。実際、私の集落ではまったく航空防除やらなかったのですが、冷害の被害に関しては農薬を使っているところと大して変わらないという結果が出ました。周りの人たちもそれを見ていて、結局、航空防除は取りやめになりました。

有機農業をやっていて難しいのは、生産量と販売量との兼ね合いです。農産物は足りないからって夜寝ずに働いて増産できるようなものではありません。たとえばニンジンやタマネギは、ある程度、保存できますが、キュウリやナスは、その日のうちに処分しなくてはなりません。欲しい量は一定で決まっているのに、天気が良いと倍収穫できてしまいます。そこで私たちは、面積を制限するのではなく増やして、市場や農協にも出荷することにしています。〈続〉

注1:全国愛農会は、1945年に起こされた有機農業に取り組む百姓の全国組織。農業を愛し、農業に生きる人びとが、自主独立の運動として推進し、全国に広がっている。愛農会ホームページ:http://www.ainou.or.jp/ainohtm/aino-indx.htm

注2:有機農業の探究、実践、普及啓発、交流等を目的に生産者と消費者、研究者を中心として1971年に結成された。運営は会費とボランティアで賄い、機関誌にも広告を一切掲載しないで独立性を保持している自主的な団体。日本有機農業研究会ホームページ:http://www.joaa.net/index.html

まとめ:安藤丈将(あんどう・たけまさ/APLA評議員)&APLA事務局

《第二部》にんじんジュースについて
《第三部》農産物の放射能汚染と測定について